大阪地方裁判所 昭和23年(行)19号 判決 1960年12月19日
原告 林欣昌 外二名
被告 大阪府知事
主文
一、別紙物件表記載の土地に対する大阪府中河内郡加美村農地委員会の定めた農地買収計画に関し、大阪府農地委員会が昭和二二年一一月二七日した、訴願を棄却する旨の裁決を取り消す。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
事実
原告等は、主文と同旨の判決を求め、その請求原因として、次のとおり述べた。
「一、別紙物件表記載の土地は亡林栄造の所有であつたところ、大阪府中河内郡加美村農地委員会は、昭和二二年九月二二日右土地につき自作農創設特別措置法(自創法)第三条により農地買収計画を定めたので、栄造は同年同月二九日異議の申立をしたが、同年一〇月八日却下され、同年同月一九日さらに訴願したが、大阪府農地委員会は同年一一月二七日訴願を棄却する裁決をし、昭和二三年一月中旬頃裁決書を栄造に送達した。その後、栄造は昭和三二年一月一一日死亡し、原告三名が同人を相続した。
二、しかし、右裁決は次の理由で違法である。すなわち、本件土地は昭和二〇年一一月二三日現在農地ではなく、また小作地でもない。
本件土地は、昭和一一年四月一六日耕地整理による仮換地として栄造の取得したものであつて、栄造は、はじめこれを草原のまゝに放置していたが、付近に住宅や工場が激増するに及び、昭和一六年、本件土地を宅地にし西尾友次郎と共同出資によりこれに工場を建設する計画のもとに、本件土地の一部を深く堀り下げ、採取した土砂をもつて他の部分を地盛りして整地し、その結果、本件土地のうち約半分以上の部分は、道路の高さまで地盛りされて宅地となり(右地盛りは、赤土その他の耕作に適さない土砂をもつて行なわれたため、これを水田として使用することはできなくなつた)、反面、堀り下げられた約四割の部分は、深いくぼ地となり、深さ約七尺の自然の水たまりとなつた。ところが、太平洋戦争のため右工場建設は困難となり、栄造は、一時その計画の実施を延期しているうち、中西芳太郎から、本件土地を番人をかねて耕作させてもらいたい旨の懇請を受け、またその頃空地のまゝ放置すれば付近の朝鮮人等が不法占拠するおそれもありかつ、食糧事情からみて休閑地として放置することを許さない状況にあつたので、栄造は右中西の申入れを承諾し、特に建築の都合を考慮して期間を昭和一八年末までと限り、同人にこれを賃貸耕作させた。したがつて、もともと同人の耕作は単に遊休地の一時的暫定的利用にすぎないものであるからその後戦争の激化と、食糧事情の極度の悪化に伴い、栄造において、本件土地の使用関係などに構つていられなくなりこれを放任していた結果、その耕作が数年に及ぶこととなり、その間耕作者が一橋常三郎、中西清次郎、吉本菊太郎等に変つたけれども、右耕作が一時的な土地使用であることに変りはない。このように、本件土地のうち前記地盛りした部分はすでに宅地化されていたものであり、たゞ戦争という特殊事情のため、土地本来の宅地としての使用目的に反し、一時的に耕作の用に供されていたものにすぎないから、これを農地ということはできない。のみならず、本件土地のうち前記水たまりの部分は、付近居住者のごみ捨て場に利用され次第に埋めたてられていたが、昭和二〇年一一月二三日当時なお相当の部分は水たまりの状態であり、ごみで埋められた部分とともに、耕作できる状態でなく、右部分は未完成の宅地というべきものであつて農地ではない。また、その間中西芳太郎は、栄造の承諾を得ず無断で、本件土地を一橋常三郎、中西清次郎、吉本菊太郎等に転貸し、同人等が前記のとおりこれを耕作していることが判明したので、栄造は昭和二〇年九月五日中西芳太郎に対し、無断転貸を理由として賃貸借契約を解除する旨の意思表示をし、同日契約は解除された。したがつて同日以降本件土地は小作地ではない。
三、以上の理由により大阪府農地委員会の訴願の裁決は違法であり、取消さるべきものであるから、その取消を求める。」
被告は、「原告等の請求を棄却する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決を求め、答弁として、次のとおり述べた。
「一、原告主張の一、の事実は認める。加美村農地委員会は、自創法附則第二条(昭和二二年法律第二四一号施行前のもの。)により、昭和二三年一一月二三日現在の事実に基づき、本件土地を不在地主の所有する小作地として買収計画(いわゆる遡及買収)を定めたものである。
二、本件土地は、昭和二〇年一一月二三日当時農地であり、かつ小作地であつた。すなわち、本件土地は従来中西芳太郎が耕作していたが、昭和一〇年頃耕地整理による換地が行われて以来、数年間耕作されずに放置されていたところ、昭和一六年頃、栄造が本件土地の一部を堀り下げ、その土砂をもつて他の部分を地盛りし、地盛りした部分は草原となり、また堀り下げた部分約一反歩はくぼ地となり水たまりとなつていたのを、右中西が同年六月再び栄造から、賃料一ケ年につき米八斗の約で賃借し、これを開墾耕作しはじめた。昭和一七年になつて、中西は、本件土地のうち東側の部分一反歩を吉本菊太郎に、賃料一ケ年につき金二五円、じやがいも二〇貫匁及びもち米一斗の約で転貸し、右転貸の事実は、当時度々現地を見廻つていた栄造において熟知しており、これを承認していた。また前記水たまりの部分は、栄造もその埋立を希望していたものであり、右中西、吉本はこれを漸次埋め立て、昭和二〇年一一月二三日当時、すでに他の部分にくらべてやゝ低い程度にまで埋め立てられ、なお雨の降る度に水たまりとなつてはいたが、その面積は晴雨の関係で一定しないし、わずかな加工でこれを耕作の用に供しうる状態になつていた(耕作者等はその後も右低地の埋立を続け昭和二五年頃他の部分と同様の状態となつた)。したがつてこの部分も農地であることに変りはないが、所有権その他の権限に基づきこれを耕作できる者が現に耕作の目的に供していなかつたにすぎないのであるから、この部分は自創法第三条第五項第五号(昭和二四年の改正後は繰り下げとなり第六号)によつて買収したものである。
三、なおその後中西芳太郎は老令のため耕作することができなくなり、昭和二一年から、本件土地のうち、前記吉本に転貸した東側の一反歩を除き、中央部の約一反歩を中西清次郎に西側の約一反歩を一橋常三郎にそれぞれ転貸した。そして中西芳太郎は、昭和二一年分の賃料の計算と、右中西清次郎、一橋常三郎の両名への転貸につき栄造の承諾を得るため、昭和二二年三月右両名を同伴して栄造方へ行き、栄造に対し右の旨を告げたところ、栄造は右両名の氏名を録取した上、ひとまず奥の間に入つて相談しているうち、老令の中西芳太郎が急病となりそのまゝ帰宅しなければならなくなつたので結局栄造からはつきりした回答は得られなかつた。しかしその後、栄造は右両名に対し、一ケ年につき金七〇〇円の割合で賃料を支払うよう回答したから、栄造と右両名間に直接賃貸借契約が成立したものというべきである。
四、以上のとおり本件の買収計画は正当であり、これを是認した本件訴願の裁決に違法はない。」
(立証省略)
理由
一、加美村農地委員会が、昭和二二年九月二二日亡林栄造所有の本件土地につき、自創法附則第二条により、昭和二〇年一一月二三日現在の事実に基づき、同法第三条に該当する農地として買収計画を定めたのに対し、栄造が異議の申立をしたが却下され、さらに訴願したところ、大阪府農地委員会は、昭和二二年一一月二七日訴願を棄却する裁決をなし、昭和二三年一月中旬頃裁決書を栄造に送達したこと、栄造は昭和三二年一月一一日死亡し、原告三名が同人を相続したことはいずれも当事者間に争いがない。
二、各成立に争いのない甲第一号証、甲第三号証の一、二、甲第四号証の一ないし四、甲第五号証の一、二および乙第一号証、原告本人としての林栄造の尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第二号証、証人中西芳太郎(一部)、同吉本菊太郎(第一回)、同中西清次郎(第一、三回)同西尾友次郎、同道庭富太郎、同藤本清(第一、二回)、同一橋常三郎(第一、二回)の各証言、原告本人としての林栄造の尋問の結果、原告本人林欣昌の尋問の結果(一部)、検証の結果を総合すれば、次の事実が認められる。すなわち、本件土地はもと水田で、従来から中西芳太郎が栄造から賃借耕作していたのであるが、昭和一〇年頃耕地整理の結果換地され、その際栄造は右小作関係を解消してその明渡を受けた。栄造は、将来これを宅地として利用する考えのもとに、昭和一二年頃、本件土地のうち南側の約一反歩の部分を深さ約六尺堀り下げ、その土砂をもつて他の部分に盛土し、その結果、本件土地のうち約半分以上の北側部分は道路と同じ高さまで地盛りされたが、半面、堀り下げられた南側部分約一反歩はくぼ地となり、自然の水たまりとなつたので、ごみ、瓦、茶わんのかけら、貝がら等をもつて漸次これを埋め立てていた。昭和一六年になつて、栄造は、西尾友次郎と共同出資して本件土地にボタン製造工場を建設することを計画したが、資金難と戦争のため、右計画は出資する段階まで至らずにそのままとなり、一方本件土地は、右地盛り後放置されていたゝめ、水たまりの部分を除いて草原となつていた。このような状態にあつたとき、もと小作人であつた中西芳太郎が栄造に対し本件土地の賃借耕作を申し入れたので、栄造はこれを承諾し、昭和一六年六月一一日中西に対し、角田清太郎外一名を連帯保証人とし、本件土地の全部を、賃料は一反歩につき米六斗五升(註、当時の標準最高米価は石当り金四三円、たゞし生産農家の手取りは石当り約五〇円であつた)毎年一二月二五日限り持参払い賃貸期間は一応昭和一八年一二月三一日まで、借主は貸主の承諾なくして賃借権を譲渡したり、転貸してはならないという約で、賃貸した。そこで、中西は、再び本件土地を開墾し、畑として耕作しはじめたが、昭和一七年から本件土地のうち東側の約一反歩を栄造の承諾を得ないで吉本菊太郎に転貸し、吉本から一ケ年金二五円の割合で転貸料を受け取り、このようにして昭和一八年一二月三一日の賃貸期間経過後も、中西と吉本がこれを耕作していた。なお中西は昭和一八年以降の賃料の支払をしなかつた。その間前記水たまりの部分は少しずつ埋め立てられては耕作されてきたが、本件買収計画が立てられた昭和二二年九月頃およびその後の昭和二三年三月頃において本件土地のうち南側の、東端より西に向つて約三分の二、東南の南端より北に向つて四分の一足らずの約一五〇坪の部分はなお水たまりになつていて、そこは耕作された形跡はなかつた。この部分の埋立作業は昭和二五年春まで続き、その全部が耕作されるようになつたのは同年からであつた。これよりさき栄造は昭和二〇年九月疎開先から現地に行つてみて、見知らぬ他人が本件土地を耕作しているのを知るや、同月五日に同日付の書留郵便をもつて中西に対し同人が本件土地を他人に無断で転貸したことを理由に本件賃貸借契約を解除する意思表示をし、同年度の米穀収獲期である同年一二月一日までにこれを明け渡すよう請求し本件土地が右期日までに返還されることを期待していたが無駄であつた。かえつて中西は老令のため耕作することができなくなつたのに、昭和二一年頃になつて本件土地のうち前記吉本に転貸した東側の約一反歩を除き、中央部の約一反歩を中西清次郎に、西側の約一反歩を一橋常三郎にそれぞれ転貸した。昭和二二年三月頃中西芳太郎は右両名とともに栄造方に赴き耕作方の承諾を求めたが、栄造はこれを承諾せず、その後各耕作者に対し本件土地の明渡しと損害金の支払を請求していた。以上の事実が認められるのであつて、以上の認定をくつがえすに足る証拠はない。
三、右認定事実から当裁判所は本件の争点について次のように判断する。
(一) 昭和二〇年一一月二三日の基準日現在、本件土地のうち現実に耕作されていた部分は自創法にいわゆる農地であつたと認める。原告等は本件土地は地盛りの結果すでに宅地となりこれを一時農耕の用に供していたものにすぎないと主張するがそれはあたらない。すなわち栄造はもと水田であつた本件土地を宅地にするつりで昭和一二年頃まず北側部分に地盛りをしたものの、そのまゝ放置したため、その部分は草原となつてしまい、昭和一六年に至つて、もと小作人であつた中西の申入れに応じ、同人に農地として耕作させるために賃貸し、中西は漸次開墾して畑となし、昭和一七年からは中西および転借人の吉本によつて耕作が続けられてきたのであるから、水たまりの部分を除いたその余の本件土地は基準日現在においてはすでに畑として農地に復元してしまつたものというべきである。
(二) 本件土地のうち、基準日現在耕作されていなかつた部分は自創法にいわゆる農地とは認められない。被告は、右部分も雨が降れば水がたまる程度でわずかの加工で耕作の用に供しうる状態であつたから農地であると主張する。しかしながら、昭和一二年頃地上げ用の土をとるため六尺も堀り立てられてできた約一反歩のくぼ地の自然の水たまりがその後漸次ごみ、瓦くず等で埋め立てられてきたとはいえ、なお埋め終らず、耕作されていなかつたのであるし、それにその面積も昭和二二年から二三年においてさえ約一五〇坪という本件土地全体の約六分の一にあたる広さであつて、基準日現在においてはこれより大きくとも小さくはなかつたとみるのが相当であるから、この部分を自創法にいわゆる農地と認めることはできない。
(三) 本件土地のうち農地の部分は、基準日現在において小作地ではなかつたといわなければならない。以下にその理由を明らかにする。
昭和一三年法律第六七号(昭和二〇年法律第六四号による改正前)農地調整法第九条は「農地の賃貸人は賃借人が宥恕すべき事情なきに拘らず小作料を滞納する等信義に反したる行為なき限り賃貸借の解約をなし又は更新を拒むことを得ず。但し土地使用の目的の変更又は賃貸人の自作を相当とする場合その他正当事由ある場合はこの限りにあらず。」(第一項)「当事者が農地の賃貸借の期間を定めたるときは当事者が期間満了前六月ないし一年内に相手方に対し更新拒絶の通知又は条件を変更するにあらざれば更新せざる旨の通知をなさざるときは従前の賃貸借と同一の条件をもつて更に賃貸借をなしたるものとみなす。」(第二項本文)「農地の賃貸借の当事者賃貸借の解約をなし又は更新を拒まんとするときは命令の定むるところにより予めその旨を市町村農地委員会に通知すべし」(第三項)と規定していた。右第一項にいわゆる「解約」は民法第六一七条の定める解約告知権の行使としての「解約の申入」のみならず、法定もしくは約定解除権の行使としての「契約解除の意思表示」をも包含するものと解するのが相当である。なんとなれば、右農調法第九条は、農地の賃貸借の特殊性を考慮し、耕作者の地位の安定と農業生産力の維持増進をはかるためには、農地の賃貸人が、貸借人側の意向と事情を顧慮することなく一方的に、賃貸借を解消して小作地を取り上げようとする行為に制限を加える必要を認めその趣旨に出た規定であるからである。そのために、右解消権の取得事由としては、約定による場合を認めず、(一)賃借人が信義に反する行為をした場合と(二)賃貸人が正当事由を有する場合に限るとなし、かつ(一)の反信義行為の例示として債務不履行たる小作料の滞納を取り上げ、しかも単なる小作料の滞納があつたというだけでは解消事由にあたらないことを明らかにし、解約告知権と契約解除権について民法と異なる特則を定めているのである。民法からすれば、債務不履行は解除権取得の法定原因であるから、もし「解約」が「解除」を含まないものとし、債務不履行による契約解除を本条の適用のほかに置く旨で立法されたものとすれば、債務不履行の一場合である小作料の滞納をこゝに挙示する必要はないはずである。かようにみてくると、本条項は、解約告知について正当事由を要求するとともに「宥恕すべき事情なきに拘らず小作料を滞納する等信義に反したる行為」という立言をもつて民法の定める解除要件の加重を明示し、賃借人の義務違背の場合における小作地引き上げの成否をめぐる両当事者の利害の調和を賃借人の義務違背の反信義性の有無に求めたものと考えるほかはない(昭和二三年一二月一八日最高裁判決民集二巻一四号四六一頁登載は「解約」は「解除」を含まないものとしつゝも、両者の権衡上解除の場合においても反信義性の有無を考慮に入れなければならない旨判示する)。
そこで、ひるがえつて本件についてみるに、栄造と中西芳太郎間の賃貸借は当初期間の定めのある賃貸借であつたが、前記第九条第二項本文の規定によつて、昭和一八年一二月三一日の経過とともに期間の定めのない農地の賃貸借として右両者間に存続していたことになる。そして前認定の昭和二〇年九月五日付書留郵便をもつてした栄造の中西に対する賃貸借解除の意思表示は、反証のない本件においては、その頃中西に到達したものと認めるのが相当である。右解除の事由は無断転貸であり、前認定のとおり、中西は書面をもつて無断転貸を禁じられていたにかゝわらず、昭和一六年六月に期間昭和一八年末までの約で借り受けた本件土地のうち東側の約一反歩を、格別の事情もないのに、はやくも昭和一七年に、栄造の承諾を得ないで、一ケ年金二五円の割合の転貸料を取つて、吉本に転貸したのである。中西の右行為は宥恕すべき事情による義務違背ではなく、信義に反する行為と認めるのが相当である。そうすると栄造と中西間の賃貸借には昭和二〇年九月上旬頃適法に解除され、したがつて基準日現在本件土地のうち耕作されていた部分は小作地ではなかつたといわなければならない。
四、以上の次第で、昭和二〇年一一月二三日現在において、本件土地のうち耕作されていた部分は小作地でなく、耕作されていなかつた部分は農地ではなかつたのであるから、自創法第三条の小作地もしくは不耕作地として定めた本件買収計画は違法であり、これを是認し原告の訴願を棄却した本件裁決もまた違法であつて取消を免れないものといわなければならない。
よつて、右取消を求める原告等の本件請求は正当として認容すべく、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 平峯隆 中村三郎 上谷清)
(別紙目録省略)